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多様化した常識、何を信じればいいのか?

常識を知らなければ社会生活を円滑に送れません。

 

常識とは、社会生活を送る上で必要な共通認識のことですので、常識知らずではまわりに迷惑をかけてしまいます。

 

ただ、その常識に囚われて窮屈に思ってしまうこともあるかもしれません。

 

もちろん、人として最低限行なわなければならないことや行なってはいけないことはあります。

 

しかし、それ以外のことに必要以上に囚われることで自己を喪失して苦しむこともあるかもしれません。

 

逆に、常識に従って生きることで楽になることもあります。

 

それは、コミュニティーから切り離されないように自身を守ることで安心を得たい心理があるからかもしれません。

 

このように、常識という杓子があることで生きやすくもあり、息苦しさを感じることもあります。

 

ただ、「常識=正しい」と言う認識が強いのではないかと思います。

 

もちろん人として守らなければ社会を形成できないこともあります。

 

しかし、それらは意外に多くないように思います。

 

そして、今、現在正しいと思われている常識も数年前には非常識だったり、数年後には非常識になっていることも数多くあります。

 

また、昔は常識だったことが科学の進歩と共に迷信と言われ嘘のように扱われ、それが最新の科学によって実証され見直されると先人の知恵と見直されるケースは数多くあります。

 

常識とよばれる多くの知識は、時代と共に変化しているのです。

 

ですので、常識に囚われると時代の変化に対応していけません。

 

特に、ここ数十年、様々なものが大きく変化しています。

 

以前は十年一昔と言っていましたが、今や数年一昔なように思われます。

 

そのくらい時代の流れが速くなっています。

 

二十年前でしたら主な情報源はテレビやラジオだったり、新聞だったり、本だったりと決まっていましたが、インターネットの普及によって数多くの情報を手に入れることができるようになりました。

 

私も十年前前後ぐらい前からインターネットで情報を得るという選択肢を選ぶようにはなりました。

 

ですが、その当時は、インターネットの情報はあてにならず参考程度にしかしていませんでしたので、主な情報源は本などに頼っていました。

 

しかし、ここ数年、スマートフォンの普及によりインターネットで情報を得ることが当たり前になってきています。

 

インターネットでもたらされる情報は多岐にわたり、膨大な量の情報がその中に盛り込まれています。

 

その上、検索をかけて調べると整合性のあるような情報も得られやすくなり便利な時代になったと思います。

 

その反面、情報が多いがゆえに情報に振り回されてしまうケースも増えているように思います。

 

体の情報ひとつをとっても、この人は「これが正しい」と言い、でもあの人は「これが正しい」と間逆のことが言われています。

 

「どちらの情報が正しいのか?戸惑っている」とよく耳にします。

 

そのような場合、間逆のことを言っていてもどちらも誤りではなく一理あり、それがゆえに余計に振り回されてしまうのかもしれません。

 

今や、何が常識なのか?定義しにくい世の中なのかもしれません。

 

ですので、この時代を生きる我々は自分にあった情報をいかにキャッチしていくのかが大切になっているように感じます。

 

数十年前でしたら、固定化された常識に縛られてがんじがらめになるケースが多かったと思いますが、今は常識が多様化して逆に振り回されて何を信じていいのか分からなくなっているケースが多いように思います。

 

人は、固定化しても不自由ですし、流動化しても不自由を感じます。

 

孫子は、「彼を知り己を知れば百戦あやうからず」と言っています。

 

そこに、今を生きるヒントが隠されているように思うのです。

 

多くの情報に振り回されないためには、

  • 自分自身のことを知る。
  • 自分に必要な情報を収集する。

ことが必要となります。

 

そのためには、何を固定化して考えるのか?何を流動的に考えるのか?を自分自身で選択することが情報過多の世の中を生きるうえで重要なように思うのです。